アルツハイマー病者からみた世界
私は誰になっていくの クリスティーン・ボーデン著より
私は10年前クリスティーン・ボーデンさんの本を読み、強い衝撃を受けました。今までの看護は何だったのか!読みながら涙があふれ止まりませんでした。それから私の看護感が変ったのです。認知症専門の看護をしながらご本人中心の看護ができていなかったことを深く反省し、自分から介護を変えなければスタフ教育はできないと思ったものでした。その後私は介護の世界に飛び込んだのです。 これからブログをご覧の皆様にクリスティーンさんの本の中から抜粋してお届けします。
アルツハイマー病が、本人よりその方を介護している家族のほうが、もっともつらい思いをしていると、認めた方です。
・私は患者の傍らにいて下さる方たちにも、私達がうまくやっていけるように助けていただき、そして穏やかで前向きの生活を送られられるよう励ましたいのです。
私達が痴呆(認知症)であっても、たとえその為に、理解しがたい行動をとったとしても、どうか価値ある人として敬意をもって私たちに接してください。
・アルツハイマー病は、私たち社会にある不治の病の中でももっとも理解されていないものの1つである。
・この病気は、その人がその人らしくあるものから多くを奪っていくが、
もっと病気についてよく知ることによってより早期に診断がなされ、患者やその家族たちがこの病気を理解し、うまく対処していけるように手助けできたらと望んでいる。
・患者の家族たちは、その
奇妙で「変てこな」親族のことを恥ずかしく思いがちであり、この愚かしい行動をなぜ止められないのか理解できないでいる。
・なぜ、脳細胞の身体的故障を、身体の他の部分の身体的故障以上に
恥じるのか
私たちは正気を失っているのではなく、
病気なのである。
どうか私たちを尊厳を保てるように扱い、私たちのことを笑いものにしたり、恥じたりしないでほしいと思う。
・初期段階では、行動と生活のやり方を微妙に変化させるのだ。
すべてのものにストレスを感じやすくなり、そのストレスそのものが病気を悪化させる。
会話や、おしゃべり、子供の遊び、流れてくる音楽、こういったものすべてがアルツハイマー病患者には、厄介なものとなるが、それは
脳が周囲の競合する音と光景を意味をなすように
整理することが難しくなるせいだ。
・家族や親しい友人は、私たちの変な行動を恥ずかしく思ったり、異常な点に悩んだり、反社会的な傾向にいらだったりするようになるのだ。最初は患者の「大騒ぎ」にイライラすることは確かだろう。
癌や心臓発作でも恥ずかしいと思わないのに、なぜ脳の中というだけで、
ただ身体的に侵される病気をそんなに恥じるのだろうか。
・私たちのようなアルツハイマー病患者は、自分ではどうすることもできない。
自分が何か悪い状態にあることは気付いているが、自分が誰であるかさえわからず、あらゆる感情や自分を表現する能力を失っているように思える。私たちは得られる限りの手助けを必要としている。
どうか私たちを隠すのではなく、私たちを仲間に入れ、
もう少しの間生きる喜びを味わわせて下さい。
・こころの中は、まるで爪をたてて絶壁に張り付いているように感じている。
・耳栓はにぎやかなショッピングセンターやその他、背景に雑音がある場所へ行くことになっている時、とても役立っている。
・いま、私に何が必要かと聞かれるならば、病気のこの段階においてタウリン(日本ではアリセプト錠)と頭の体操だと答えたい。それは、私を機能させ続けているものであり、私の脳が機能するように立ち向かわせ続け、願わくば病気の進行を遅らせるものである。そして、私を絶壁に爪を立てて張り付かせ続けている。
・私が逆上モードにならないために、もうひとつ必要なことは、
猫である。猫たちは私を落ち着かせ、多くのことを一度にしようとしても走り回らないようにしてくれるので、今では、私の重要な生活の一部分になってきた。静かにただすわって猫たちをなでながら何もしないでいることが、私に
「脳の休憩時間」が与えられるのだ。
・アルツハイマー病患者が、ぼんやり見つめる理由は、
あまり多くの刺激にさらされるために、かえって
大事なポイントがわからなくなるせいかもしれない。
視覚的であれ、聴覚的であれ刺激が多すぎると
喜ばせようとしてもまったく逆効果になるのかもしれない。
以上若年性アルツハイマー型認知症である
クリスティーン・ボーデンさんの声です。
私たちはできる限り本人の気持ちに寄り添い、
本人を理解しようと努めなければならないと思いました。
ホーム長 石田
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