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2010年09月28日
アルツハイマー病者からみた世界・クリスティーンの本より
資料 2
アルツハイマー病者からみた世界
私は誰になっていくの
(クリスティーン・ボーデン著書より)
アルツハイマー病が患者よりその介護者にとって、さらにもっともつらいものであることを訴えた人であり、認知症本人の言葉から認知症の方に対する見方や捉え方が変わってきました。そして今色々な地域で本人の言葉で認知症のつらさ、思いが講演会などで語られています。私はこの本を読み大きな衝撃を受けました。今まで自分が取り組んでいる看護・介護はなんだったのか。ここから認知症の方に対する看護感が変わってきました。認知症本人の気持を理解しようと努めるるようになりました。
●私は患者の傍らにいてくださる方たちにも、私たちが上手くやっていけるように助けていただき、そして穏かで前向きの生活を送られるよう励ましたいのです。私たちが痴呆(認知症)であっても、たとえそのために理解しがたい行動をとったとしても、どうか価値ある人としての敬意をもって私たちに接してください。痴呆症(認知症)は他の病気と同じように一つの病気であることを私は知っている。痴呆症(認知症)も敬意を払われ、尊厳を保たれる価値ある人なのです。
●アルツハイマー病は、私たちの社会にある不治の病の中でも、最も理解されていないものの一つである。
●この病気は、その人がその人らしくあるものから多くを奪っていくが、もっと病気についてよく知ることによって、より早期に診断がなされ、患者やその家族たちが、この病気を理解し、うまく対処していけるように手助けできたらと望んでいる。
●患者の家族たちは、その奇妙で「変てこな」親族のことを恥ずかしく思いながちであり、この愚かしい行動をなぜ止められないのか理解できないでいる。
●なぜ、脳細胞の身体的故障を、体の他の部分の身体的故障以上に恥じるのか。私たちは正気を失っているのではなく、病気なのである。どうか私たちが尊厳を保てるように扱い、私たちのことを笑いものにしたり、恥じたりしないでほしいと思う。
●初期段階では、行動と生活のやり方を微妙に変化させるのだ。すべてのものにストレスを感じやすくなり、そのストレスそのものが病気を悪化させる。会話やおしゃべり、子どもの手遊び、流れている音楽、こういったものすべてがアルツハイマー病患者には、やっかいなものとなるが、それは脳が周囲の競合する音と光景を意味をなすように整理することが難しくなるせいだ。
●家族や親しい友人は、私たちの変な行動を恥ずかしく思ったり、異常な点に悩んだり、反社会的な傾向にいらだったりするようになるのだ。最初は患者の「大騒ぎ」にイライラすることは確かだろう。癌や心臓発作でも恥ずかしいと思わないのに、なぜ脳の中というだけで、ただ身体的におかされる病気をそんなに恥じるのだろうか。
●私たちのようなアルツハイマー病患者は、自分ではどうすることもできない。自分は何か悪い状態にあることは気づいているが、自分は誰であるかさえ分からず、あらゆる感情や自分を表現する能力を失っているように思える。私たちは得られる限りの援助や手助けを必要としている。どうか私たちを隠すのではなく、私たちを仲間に入れ、もう少しの間生きる喜びを味わわせてください。
●心の中はまるで爪を立てて絶壁に張り付いているように感じている。
●耳栓はにぎやかなショッピングセンターやその他、背景に雑音がある場所へ行くことになっている時とても役に立つ。
●今、私に何が必要かと聞かれるならば、病気のこの段階においてタウリンと頭の体操だと答えたい。それは私を機能させ続けているものであり、私の脳が機能するように立ち向かわせ続け、願わくば、病気の進行を遅らせるものである。そして、私を絶壁に張り付かせ続けている。
●私が逆上モードにならないように、もう一つ必要なことは猫である。猫達は私を落ち着かせ、多くのことを一度にしようとして走りまわらないようにしてくれるので、今では、私の重要な生活の一部になってきた。静かにただ座って猫達をなでながら何もしないでいることが、私に「脳の休憩時間」が与えられるのだ。
●アルツハイマー病患者がぼんやり見つめる理由は余り大きな刺激にさらされるために、かえって大事なポイントが分からなくなるせいかもしれない。視覚的であれ聴覚的であれ刺激が多すぎると、喜ばせようとしても全く逆効果になるのかもしれない。

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アルツハイマー病者からみた世界
私は誰になっていくの
(クリスティーン・ボーデン著書より)
アルツハイマー病が患者よりその介護者にとって、さらにもっともつらいものであることを訴えた人であり、認知症本人の言葉から認知症の方に対する見方や捉え方が変わってきました。そして今色々な地域で本人の言葉で認知症のつらさ、思いが講演会などで語られています。私はこの本を読み大きな衝撃を受けました。今まで自分が取り組んでいる看護・介護はなんだったのか。ここから認知症の方に対する看護感が変わってきました。認知症本人の気持を理解しようと努めるるようになりました。
●私は患者の傍らにいてくださる方たちにも、私たちが上手くやっていけるように助けていただき、そして穏かで前向きの生活を送られるよう励ましたいのです。私たちが痴呆(認知症)であっても、たとえそのために理解しがたい行動をとったとしても、どうか価値ある人としての敬意をもって私たちに接してください。痴呆症(認知症)は他の病気と同じように一つの病気であることを私は知っている。痴呆症(認知症)も敬意を払われ、尊厳を保たれる価値ある人なのです。
●アルツハイマー病は、私たちの社会にある不治の病の中でも、最も理解されていないものの一つである。
●この病気は、その人がその人らしくあるものから多くを奪っていくが、もっと病気についてよく知ることによって、より早期に診断がなされ、患者やその家族たちが、この病気を理解し、うまく対処していけるように手助けできたらと望んでいる。
●患者の家族たちは、その奇妙で「変てこな」親族のことを恥ずかしく思いながちであり、この愚かしい行動をなぜ止められないのか理解できないでいる。
●なぜ、脳細胞の身体的故障を、体の他の部分の身体的故障以上に恥じるのか。私たちは正気を失っているのではなく、病気なのである。どうか私たちが尊厳を保てるように扱い、私たちのことを笑いものにしたり、恥じたりしないでほしいと思う。
●初期段階では、行動と生活のやり方を微妙に変化させるのだ。すべてのものにストレスを感じやすくなり、そのストレスそのものが病気を悪化させる。会話やおしゃべり、子どもの手遊び、流れている音楽、こういったものすべてがアルツハイマー病患者には、やっかいなものとなるが、それは脳が周囲の競合する音と光景を意味をなすように整理することが難しくなるせいだ。
●家族や親しい友人は、私たちの変な行動を恥ずかしく思ったり、異常な点に悩んだり、反社会的な傾向にいらだったりするようになるのだ。最初は患者の「大騒ぎ」にイライラすることは確かだろう。癌や心臓発作でも恥ずかしいと思わないのに、なぜ脳の中というだけで、ただ身体的におかされる病気をそんなに恥じるのだろうか。
●私たちのようなアルツハイマー病患者は、自分ではどうすることもできない。自分は何か悪い状態にあることは気づいているが、自分は誰であるかさえ分からず、あらゆる感情や自分を表現する能力を失っているように思える。私たちは得られる限りの援助や手助けを必要としている。どうか私たちを隠すのではなく、私たちを仲間に入れ、もう少しの間生きる喜びを味わわせてください。
●心の中はまるで爪を立てて絶壁に張り付いているように感じている。
●耳栓はにぎやかなショッピングセンターやその他、背景に雑音がある場所へ行くことになっている時とても役に立つ。
●今、私に何が必要かと聞かれるならば、病気のこの段階においてタウリンと頭の体操だと答えたい。それは私を機能させ続けているものであり、私の脳が機能するように立ち向かわせ続け、願わくば、病気の進行を遅らせるものである。そして、私を絶壁に張り付かせ続けている。
●私が逆上モードにならないように、もう一つ必要なことは猫である。猫達は私を落ち着かせ、多くのことを一度にしようとして走りまわらないようにしてくれるので、今では、私の重要な生活の一部になってきた。静かにただ座って猫達をなでながら何もしないでいることが、私に「脳の休憩時間」が与えられるのだ。
●アルツハイマー病患者がぼんやり見つめる理由は余り大きな刺激にさらされるために、かえって大事なポイントが分からなくなるせいかもしれない。視覚的であれ聴覚的であれ刺激が多すぎると、喜ばせようとしても全く逆効果になるのかもしれない。

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Posted by 2人3脚 at 23:14│Comments(0)
│認知症のケア・ポイント