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2011年01月02日

死なないで!殺さないで!生きようメッセージ集終了有難う!

認知症の人と家族の会






いま、介護でいちばんつらいあなたへ、思いとどまった介護者からの渾身のメッセージ集の中からお届けします。




長い間ブログ通して介護家族のナマの声をご覧頂き有難うございました。介護家族でなければ、心情はわかりません。私たち介護に携わる者も介護家族の思いを理解し、対応しなければならないと思いました。そして今なお悲惨な事件が続いています。是非一声かけて下さい。自分ひとりで悩まないで、一歩外に踏み出して見ましょう。介護は3割、自分の時間が7割もたないと自分自身がつぶれます。ブログをご覧の皆様、悩んでおられる家族にお会いしましたら、思いや苦しみを聞いてあげてください!吐き出すことで次の一歩が生まれてきます。       

                                     2人3脚 ホーム長 石田友子





公益歩人・認知症の人と家族の会・理事
人権擁護専門委員長・田部井康夫氏からのメッセージ



介護殺人や介護心中の報道に接するたびに、何とかならなかったのだろうか、と思ってきました。何とか、別の道を選択してもらうために、「家族の会」として出来ることは何か、「家族の会」でなければできないことは何か、と考えました。出た結論は、同じような体験をした家族の声を届けること以外にない、でした。





体験談を募集するにあたって、少し心配はありました。「死」にかかわる体験を公表することに対して、会員には抵抗感があるのではないかと思ったからです。しかし、それは全くの杞憂でした。応じてくれた速さにおいても、その内容の率直さにおいても、そして呼びかけの言葉の適切さにおいても、私の予測をはるかに超える、心情あふれるものばかりでした。それは三十年の歴史を通して到達した「家族の会」の「質」の水準の高さを物語っています。「家族の会」はここまできたという感慨と同時に、大きな誇りを感じました。






「死」を乗り越えた多くの人は今、平穏を得ています。しかし、「死」を乗り越えたとはいえ、今も屈折した思いを抱えている人もいるのも事実です。でも、共通するのは「死」を通り越した体験を、自分の心の中に閉じ込めず、他の人に対して呼びかけようという気持ちです。いずれの人も、「死」を通り越すことによって、変わったのだと思います。そして、他に呼びかけることによって、その気持ちはさらに大きく変ったとと信じています。生きる、という方向に向かって。外に向かって発することの意味は限りなく大きいと思います。





「家族の会」は今年のアルツハイマーの標語を「話してみよう認知症、あなたの勇気が地域を変える」としました、介護されている方は、是非その思いを、つらさを、誰かに話してください。話すには勇気がいると思います。その勇気は、きっと自分自身を変えることに気づかれると思います。周囲にいる方は、是非介護者に声をかけてください。その勇気は、きっと介護者を変え、その人自身を変えると思います。その輪が地域を変える力に必ずなると信じています。





でも、現実には、今も、介護をめぐる事件の報道が絶えることはありません。大切なのは、話すきっかけを作ることです。私たちは、作成したリーフレットを、何とか手にしてもらおうと色々なところに普及しています。介護保険の窓口や地域包括支援センターのナなどはもちろん、生活の必要があって立ち寄るかもしれない、コンビニやスーパー、金融機関などにも置いてもらうよう働きかけています。





理解は確実に広まっています。私たちは、悲しい「死」をなくす、具体的な成果につなげたいと思っています。社会保障全般による対策も強く求めながら、今、私たちができることを、粘り強く、確実に進めてゆきます。本書とリーフレットにより、「死」を通り越した介護家族の心からの呼びかけが、一人でも多くの人に届くよう、そして、一人でも多くの人が「生きよう!」と思ってくれるよう、心から願っています。






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2010年12月26日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より最終回

認知症の人と家族の会






いま、介護でいちばんつらいあなたへ、思いとどまった介護者からの渾身のメッセージ集の中からお届けします。





変わる  何度も涙しながら自分を変える




私の確信「必ずのがれる道が開かれる」
                    (福岡県・男性・82歳)



私は十数年にわたって認知症の妻を自宅と施設で介護し、2007年2月に看取り終えました。直接手をかけるような限界状況はありませんでしたが、全体を通していくつかの大事なことを学びました。





一つには「痴呆は生きている」ということです。生きているからさまざまな現象が起こり、出没したり、前後したり、形を変えたり、常識(健常)人の考えが及ばないような事態が起こります。裏返せば、同じ状態がそう長くは続かないということでもあります。異常行動が次々に加わって大河のごとくなり、それがいつまで続くかわからないと思うと、多くの人が気落ちして、悲惨な事件が起こりやすい。





しかし、輪つぃは確信します。「必ず逃れる道が開かれる」のです。「早まるな、もうしばらくの辛抱だ」と言いたいのです。在宅時代の終わりごろ、最も困ったのは妻に買い物に行かれることでした。「私が行く」と言っても、ちょっとの好きに出て行きます。行けば在庫は忘れて、目の前の好物に手を伸ばして買い込んでくる。当然同じものが溜まります。買ってきた食材などをどう処置してよいか分からず、私が病気したときなど、二人とも絶食で困り果て、まさに限界一歩手前でしたしかし、翌日、彼女は急変して緊急入院し、しばらくして特養に移りました。





宗教の選択は自己責任ですから「何教を」と勧めることはできませんが、私が頼りとしたのは聖書でした。「神は真実である。あなた方を耐えられないような試練にあわせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えてくださるのである」(コリント第1の手紙1013)とあります。聖書の言葉に部分的に都合よく受け取ることには賛成できませんが、私どもにとって大きな望みであり、そして事実でした。私たちは子どもも親戚もいないので、「私(夫)が先でなくよかった」と深い安堵に包まれながら、満足死・勝利死に向けて邁進しています。






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2010年12月11日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

認知症の人と家族の会






いま、介護でいちばんつらいあなたへ、思いとどまった介護者からの渾身のメッセージ集の中からお届けします。





変わる  何度も涙しながら自分を変える




疲れる前に、なるべく早いうちから
施設のなどの手続きを

                    (岩手県・女性・80歳)




年老いて、まさかこんな悩みの生活になるとは思っていませんでした。私は80歳、認知症になった夫は83歳、10年前頃から物忘れが出てきました。最初の頃は年を取ってくると誰もこんなになるんだなと思って、あまり気にとめないでいました。本人は釣りが好きで、暇があれば出かける人でした。ちょうど73歳の頃、出かけるときには「行ってくるからナー」と言うのに対して、私は「いってらっしゃい。もう73歳なんだからナー気をつけてヨ」と何回送り出したかわかりません。





5、6年前から話は少ないし、怒りっぽく、たたかれたり、外に追い出されたり、投げ飛ばされたり、倒されたりした時は、心臓もドキドキ苦しくなってしまいました。何回も繰り返され、その時は「殺してくれ、このまま死んだほうがいい」と泣きました。すっかり私も別人になってしまいました。デイサービスのケアマネージャーさんのお世話で、ただいまはグループホームにお世話になっています。それまで10ヶ月も悩みました。施設ではいいおじいさんになっています。今になると、どうしてあんな人間だったのかと思うより仕方がありません。





介護のみなさん、がんばるのはいいことですが、自分の体を悪くするだけです。時々新聞で見るような介護疲れから事件が起きないとも限りません。そうならないうちに、お隣り近所の親切やら、施設のお世話をいただけるよう、なるべく早いうちから手続きなさってください。本当にご苦労さまです。他人様には分かりません。一人暮らしも淋しいけれど、施設で楽しく過ごしてもらいたいと思っています。






<ホーム長のつぶやき>


認知症の男性が暴言や暴力が出てしまううと家族が疲弊します。認知症になってしまった本人の気持ちや病気の理解ができていなかったり、本人の居場所やどうしてよいか分からない苦しさから暴力行為になってしまうことが多いのです。認知症疾患治療病棟の勤務時代や現在の2人3脚での経験から感じることは、嫉妬妄想や夜間せん妄、被害妄想出現時や初期の頃は自分の病気に対する不安、物忘れの不安、それに伴うストレスからの身体の痛み・頭の痛み等から暴言暴力が出ることが多い。





奥様本当によくがんばりました。グループホームに入居できてよかったですね。その人らしくゆったりと生活していることでしょう。認知症の人が在宅で暮らすことは本当に難しいことです。特に老々介護は大変です。投げ飛ばされて骨折でもおこしたりすればもうその時点で介護はできません。そうならないうちに早期に診断が下され早期に治療が開始され、介護保険のサービスをお使いになることをお勧めします。また、初期の段階の認知症はどうしても介護度が低く出てしまい、思ったようにデーサービスが使えず、認知症の進行が進んでしまいます。常に認知症の方の介護度が最低でも介護1以上はほしいものです。






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2010年12月02日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

認知症の人と家族の会






いま、介護でいちばんつらいあなたへ、思いとどまった介護者からの渾身のメッセージ集の中からお届けします。





変わる  何度も涙しながら自分を変える





妻を殺して自分も死にたいと思った
地獄の時期

                               (滋賀県・男性・79歳)


平成18年末まで、本当に真剣に、殺したい、死にたいと思っていました。18年4月、妻がベッドから勝手に降りてトイレに行く途中、フローリングで転んで骨折してからが、極端な受難の日々となりました。その時は救急車で病院に入り、右足の大腿骨骨折で手術を受け、1ヶ月ほど入院して帰ってきました。病院はその後のリハビリなどの助言も、そのために病院へ通いなさいとか、手配もしてくれませんでした。認知症だから、寝ていたほうがよいくらいに思っていたのかも知れません。





病院から帰ってきた妻の世話が大変です。認知症の病名はレビー小体病でパーキンソン症状をともなう、まことに悲惨な病気です。このため少しづつからだが硬くなって、動かなくなるということです。彼女の心境を思う時、必ず涙がこぼれ落ちてきます。病院から帰ってきてからは、夜だいたい10分おきにトイレにいきますので、動かない身体を抱きかかえて用を足せベッドへ寝かせる、またトイレへ・・・・・、の繰り返しでした。




こっちは眠れない日々が続きます。眠れない翌日は、炊事、洗濯、買い物、掃除が控えています。寝不足のフラフラの身体で、重い彼女の身体がこたえて、私が膝を壊し、手術を受けるため入院しました。この間は老健へ預けましたが、運のよいことに引き続き2007年2月に特養へ入所させていただき、本当に助かっています。骨折した4月から私が入院する11月までは地獄でした。この時期に妻を殺して自分も死のうと思いました。





<ホーム長のつぶやき>



認知症が軽度でも重度でも一人で介護することは避けなければなりません。介護は3割、自分の時間を7割にしないと介護家族はつぶれてしまいます。いま、ブログにレビー小体型認知症の介護が分かるガイドブックを入力しています。アルツハイマー型認知症よりさらに介護が大変だということがガイドブックを勉強して解かりました。そしてさらに骨折にみまわれ、想像を絶する介護の大変さが目に浮かんくるようです。





死ななくて良かったですね。奥様は余裕をもって接してくれるご主人の介護を望んでいたに違いありません。介護が大変になると笑顔は出てきません。常に険しい顔つきで奥様に接することになり、それがかえって本人を混乱させます。幻視からくる行動障害と戦いながら不安で一杯の奥様を支えることはさぞ、困難だったことでしょう。認知症が重度の方を在宅で支えることは本当に大変なことです。お疲れ様でした。これからもたくさんの愛情をそそいでほしいと思います。






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2010年11月21日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

認知症の人と家族の会






いま、介護でいちばんつらいあなたへ、思いとどまった介護者からの渾身のメッセージ集の中からお届けします。





変わる  何度も涙しながら自分を変える


前の夫は死んで今の夫は別の人、
私は二度目の結婚・・・・・と考えて

                           (静岡県・女性・79歳)


ヘルペス脳炎を患って認知症になっている夫を介護して17年9ヶ月になります。当時61歳。毎夕3合近い晩酌をしていたので、自宅で倒れた時てっきり脳溢血だと思い、救急車で脳神経外科医院へ搬送してもらいました。検査の結果ヘルペス菌による脳炎と診断されました。





二人暮らしの私は病院に寝泊りし、45日目に退院許可がおりました。院長から「記憶を司る海馬がやられているが、考えようによっては、身体が不自由になって、介護するよりよかったかもしれません」と言われました。微熱さえ取れれば元の夫に戻るだろうと思い、テレビ、時計など名前がすぐに出てこないのを変だと思わず、夫が認知症になるなどとは考えもしませんでした。





そのうち何度もポストを覗きに行ったり、台所に出入りして、冷蔵庫の中を漁るなど、あまりりの変わりように、まさか・・・・・、と否定したい気持ちでした。さらに徘徊も始まり、警察のお世話になってご近所にも知れわたりました。家に二人きりでいると私のほうが変になると思い、午前と午後、雨の降らない限り散歩しました。なるべく人のいない山道を、一時間から二時間歩きました。崖に立って眺めている時など、ここで体当たりして落ちたら死ねるだろうかという思いを幾度もしました。





そんなある日、夫が口笛を吹いたのです。「夕焼けこやけ」でした。夫の口笛は、初めて聞きました。泣きながら歌いました。そのとき思ったのです。前の夫はもう死んだのだ。今の夫は別の人で、私は二度目の結婚なんだ・・・・・と。「かまくらりんどうの会」に入会し、心のうちを何もかも話し、一緒に泣いていただきました。よくぞ聴いてくださったと感謝しました。私はこの会で救われました。現在は身の丈にあった介護付き有料老人ホームに二人で入居し、三食を共にとり、夜間は同じベッドに休み、日中はそれぞれ自由行動という環境の中で、心穏かに日々を送っています。







<ホーム長のつぶやき>


18年あまりの介護生活、さぞ大変だったことでしょう。そして現在も夜間、介護をされ、強いきずなで結ばれているのだと推察いたします。若年性の認知症を患いよくここまで頑張ってこられました。当時は認知症の人に対しての偏見も根強く、ご近所の方に理解していただくことは大変なことだったでしょう。介護保険が始まる前からの介護です。




ご主人の口笛が今ここに聴こえてくるように感じます。高くて透きとうった音色です。その口笛で心があらわれたのですね。本人の苦しみ、悲しさを思いをくみ取り介護が変わり、今も介護付きホームで介護されていることに敬意を評します。いつまでも仲良くお元気でお暮らしください。自分の時間を持ててよかったですね。また、悩みや苦労話を聞いてくれる場があるということがいかに大切かを学ばさせて頂きました。






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2010年11月05日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集

認知症の人と家族の会






いま、介護でいちばんつらいあなたへ、思いとどまった介護者からの渾身のメッセージ集の中からお届けします。





変わる  何度も涙しながら自分を変える



包丁を取りに行ったことが
少なくとも3回はある
            
                          (埼玉県・男性・78歳)


妻が要介護3の頃のことである。夕方七時半には床につく。とにかくよく寝かせようと、昼間三時間の散歩もし努力した。が、夜中十二時半、二時半、四時半と二時間ごとに毎晩三回は起きる。我が家のトイレがわからなくなった妻を見かねて、やはり介護のため起きた。「どうせ治らない病だ」と思うと、つい”カッ”となって一階まで階段を降りていた。包丁を取りに向かった。妻を刺し自分も死のうと思っての行動だった。





そのとき、ふとドイツのフランクフルトを妻と歩い時のことが頭に浮かんだ。たまたま日曜日だったこともあり、教会をのぞくと、“祈る人々の姿”があった。.「そうだ、日本にもお寺がある」と思った。若い頃読んだ丹波文雄さんの「親鷲」と重なったからである。





すぐ電話帳で探すと、なんと住まいの近くに浄土真宗のお寺があった。子供の頃、祖母がにこにこ顔で「今日のご法話はよかった」と私に語りかけてくれたものだった。お寺にお参りしていると、ご住職さまのご法話が、身にしみた。最後に参拝した皆さんで「旅ゆくしんらん」を合唱した。涙が止まらなかった。





包丁を取りに一階まで降りたことが、少なくと三回はある。今、妻はターミナル・ケア段階にある。あの時よくもまあ思いとどまったと思うが、人間、心の余裕がなくなると“カッ”となるときがあるものだと思う。





妻の今の姿をみると、ホトケサマだなあと思う。もう施設での生活が三年にになるが、毎日、面会に行っては「まだまだ元気でいてくれよなあ」と思う昨今である。






<ホーム長のつぶやき>


人間誰しも心に余裕がなくなると、よからぬ事を考えてしまう。とくに認知症の人を介護していると普通の人の何十倍もの心の負担が重くのしかかる。我々職員でさえ、行動障害による精神運動興奮が活発になってくると、バーンアウトしそうになる。しかし認知症をしっかり理解しているとこのストレスもいくらか軽減してくる。




ご主人、いい介護をなさいました。そして殺さなくて、死ななくてよかった。神さまはいるのですね。日本には大勢の神さま、仏さまがいると聞きました。天災から守ってくれる神さま、仏さまがたくさんいるから日本は安泰でいられると聞いたことがあります。仏さまのようなお顔をされている奥様は幸せですね。毎日面会にいらっしゃられ、頭が下がります。これからもたくさんの愛情をそそいでほしいと思います。







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2010年10月23日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

認知症の人と家族の会






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変わる  何度も涙しながら自分を変える



「これは病気なのだ。
本人の尊厳を守るのは私だけだ」と自分を変えて

                        (神奈川県・女性・78歳)


主人の発病後11年余りが経過しました。8年目以降、腸閉塞で手術。入退院を繰り返し、そのたびに認知症が進行しました。現在は要介護4、昨年5月に特養に入所、ただいまは日によりますが、大体落ち着いています。初期には、発病前と変わらぬように見えるときが多いのに、言うことなすことに時折異常が見え、本人は正当性を主張します。説明、説得を無理にせずに上手に接していても、どう対応してよいか分からなくなり、病気の進行やその後のことを考えると不安が大きく、一緒に死にたいと何度も思いました。





そのとき、頭をよぎったのは、「これは病気なのだ。本人の尊厳を守るのは私だけだ。私の勝手だけで、行動してはいけない・・・」ということでした。そう思いながら悔やみ、何度も涙しながら、自分を変えることに努めました。発病後三年、保健所の紹介で入会した地域の「家族の会」のおかげで、心が軽くなり、もっと苦労している方が多いことを知って、現状に対して感謝の気持ちがもてました。







<ホーム長のつぶやき>




11年もの介護生活大変でしたね。入退院のたびに身体的病気はよくなっても認知症という病気が変わりに進行してしてしまうことは、さぞ大変だったろうと思います。どうしてもわがままになり自分の不安感を妻にぶつけてしまい、そちらの対応のほうが大変であったろうと思います。そしてご主人、本人の尊厳の大切さをいち早く気付かれたこと、素晴らしいことです。奥様の感性の豊かさと優しさがこの文面から伝わってきます。介護家族は自分に余裕がなく尊厳までなかなか目が向かないものです。「家族の会」に入会されたとのこと。是非今まで培ってきた介護経験を活かし、多くの方の手助けをしてください。







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2010年10月06日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

認知症の人と家族の会






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変わる  何度も涙しながら自分を変える




夫に「おかあちゃん」と言われて我に返った
                                (和歌山県・女性・77歳)


私は夫(アルツハイマー病)の介護経験者です。思い返せば、発症後3年くらいから病気特有の行動が始まりました。暴力、暴言、徘徊、言葉では言い表せない日々でした。病気の知識も乏しく戸惑うばかりで、地獄のような毎日が続きました。





こんな日々がいつまで続くのだろうと考えると、夫を殺して自分も死のうと首に手を持っていったとき、夫の口から「おかあちゃん」と。その一言に我に返りました。手をゆるめ「ごめんね」。その日から、夫と共に病気に付きあっていこうと決めました。あれから10年、一緒に楽しく暮らすことができました。





介護後は生活の一環として、普通の生活をすることが大事だと思います。介護してあげると思わないで、させてもらっている。このようなケアをすると、介護は楽に変わっていきました。







<ホーム長のつぶやき>



10年もの介護が楽しかった。一緒に楽しく暮らせたと思える介護、とはどんな素晴らしい介護をしていたことでしょう。ご主人はさぞかし、幸せだったことでしょう。奥様の言うこの「普通の生活」が認知症の方には大切なのです。施設を立ち上げ、まず実行したのが「家庭」をできるだけ変えない環境でした。





そう、在宅の延長線上に施設ケアがあり、できるだけ「ハコモノ」としてのイメージを振り払っていこうと決心しました。2人3脚のスタッフの年齢層は20歳代から70歳代までと幅が広いです。そこは大家族の家庭なのですから。






この奥様のようにご主人を介護しているのではなく、介護させてもらっていると思える方は数少ないでしょう。そう思うことによって介護する上で、接し方に変化が生まれ、ご主人は安心して介護を委ねられたのでしょうね。暴力も暴言も、徘徊も混乱もなく楽しく暮らせることが、介護の仕方によってこのように変化するのだということを奥様は実践されました。学ばせていただきました。






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2010年09月25日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

認知症の人と家族の会






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変わる  何度も涙しながら自分を変える



一人で頑張らないで困ったら相談を
                               (広島県・女性・76歳)


寝たきりになった主人を二年半、居宅介護し、その後アルツハイマー以外の余病を併発し、三ヵ月間入院し軽快しましたが、誤嚥性肺炎の心肺(危険)があり、また他の病院へ移って胃ろうを施術しましたが、結局三ヵ月で亡くなりました。入院前すでに妻の私が分からなくなったとき、殺したいとは思いませんでしたが、施設に入所させたいと思いましたので、入院したとき、申し訳ないことながらホッとした思いもありました。




老々介護に疲れ、希望もなく何もかも投げ出したいと思ったこともあります。子どもや姉妹には主人の尊厳を守ってあげたい面もあり、看護師、ヘルパーさんにはありのまま話して、時には泣きごとをいうこともありで、相談にのってもらい助けていただきました。ヘルパーさん、デイサービス、ショートステイにもだんだん回数を増やしてお世話になりました。介護者であり、一家のキーパーソンの役目をする「お母さんが倒れたら、お父さんが困るんですよ」と、ケアマネさんはよく言ってくださいました。





私も自身も腰椎症で要支援の身体でしたので、デイサービスで週一回は身体を休め、週1回はヘルパーさんに掃除もお願いしました。月一回の認知症の家族の会(やすらぎ会)に出席し、みなさんの介護の知恵を学びました。一人でがんばらないで、困ったら相談し介護保険などの社会的援助を利用し、忙しい中にも自分自身の時間を持つことが大切と思います。






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2010年09月15日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

認知症の人と家族の会






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無意識に姑の首に
両手を当てていました

                          (山形県・女性・75歳)





脳梗塞が原因で「脳血管性痴呆症」を患った姑を、私が介護した期間は8年間です。見取りを終えてからすでに15年になります。大変だったけれど、姑にも何度も『有難う』と感謝され、手を合わせ拝んでくれました。その笑顔が忘れられません。






私たちの場合は、成人した三人の子ども達と、隣に住んでいた、実母が、応援してくれたので、大層助かりました。困ったのは、当時は「痴呆症」の患者を預かってくれる施設が地元にはまったくなかったことです。市役所に相談に行っても「あなたが仕事をやめて介護するしかありません」と言われるばかりでした。






姑はとても元気で、食べたことを忘れ、鍋の煮物など口に入れてしまうのでした。健脚で、目を離すといなくなり、自転車で追いかけなければなりませんでした。片時も心が休まらず、4年目に私は「心因性の気管支喘息」に罹ってしまいました。





疲れ果てて生きる気力を失っていた私は、姑の安らかな寝顔を眺めいて、無意識に姑の首に両手を当てていました。ハッと正気に戻った私は、体が震えました。そして私は姑のそばを離れてひたすら眠りたいという思いに駈られ実母と共に温泉宿に行き、2日間眠り続けました。その後、私は半年間の入院生活を余儀なくされました。入院中はひたすら眠り続けていました。





入院の準備をしていたとき、生まれた故郷青森の二年先輩のご夫妻が建てた老人保健施設・いちい荘」から案内が届きました。それには「認知症の方・お預かりします」とあり、「私のために建ててくださった」と思いました。夫が青森に出向いて安心して預けられる施設と判断し、お世話になりました。




姑を預かってもらった四年間、夏休み中に10日ほど、私たち夫婦と末娘の三人で「いちい荘の手伝いに行って、患者さんへの接し方を学びました。私の家族が8年間の介護を続けられたのは「家族の会」と「いちい荘」があったからと心から感謝しています。





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2010年09月06日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

認知症の人と家族の会






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変わる  何度も涙しながら自分を変える




つらいのは決して自分一人じゃない
                          (新潟県・男性・75歳)

私の場合「殺したい」ではなく、「死にたい」と思ったことが何度かあります。平成15年当時78歳の妻がアルツハイマー病と診断されてから5年、現在は要介護4となり、老々介護も堪忍袋の緒が切れました。主治医には、「介護疲れ(ストレス)から」といわれ、黄疸との宣告を受け即入院し、同時に妻を施設に入れてもらいました。





十二指腸、腎臓、胃も2/3を切除と9時間に及ぶ大手術受け、九死に一生を得ました。約2ヶ月で退院となり、目下自宅療養中です。まだまだ妻を介護できる状態ではなく、妻は転々とですがいまだに施設に入所中です。面会に行くたびに「一緒に家に帰りたい」と、まるで子どものようにダダをこねる次第です。






入院中何度か病棟(5階)屋上から飛び降りようかと思ったこともありました。だが妻を一人残して行かれもせず、、病院から脱走し施設の妻を連れ出し道づれに、とも考えてみたりしました。その都度子どもや孫達の顔が走馬灯のように脳裏をかけけめぐり、それもできず、正気に返りました。





自分よりはるかにつらいおもいに堪えて介護している人たちが大勢いるのだ。決して自分一人ではないのだと自分を戒め、わが身に鞭打って、まず、自分自身の全快を目指して療養に励み、一日も早く妻を施設から解放し、残り少ない余生を温かく楽しみ、そして貧しくとも健康で明るい家庭生活を、と考えています。






どうか皆さん、同じ境遇にいる人たち同士が、手に手を取り合って「殺す」「死ぬ」と言わず、明るくして強く生きていこうではありませんか。





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2010年08月31日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

認知症の人と家族の会






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変わる  何度も涙しながら自分を変える



認知症が
介護者を虐待するのです

                                 (大阪府・女性・75歳)


高齢者虐待が叫ばれていますが、それ以上に介護者は虐待を受けています。介護はとっても苦しい介護の連続ですが、介護を受けるものがしているのではなく、病気が介護者を虐待するのです。





要介護者(夫)に対しては嫌悪感で一杯でした。夫の嫌悪感はがまん、がまん「隣人にすることは神にすること」と思いがまんしました。尊敬するのに25年かかりました。ある日、洗濯のために着替えを手伝いました。「何をするんだ」と足で蹴られました。あなたによかれと日々過ごしているのにと、悔しい思いでした。





首に手をかけました。でも髭がざらざらしているので嫌になり、やめました。手でたたくと、暴力でこちらがやられそうでしたので、瞬間の判断でした。首を絞めるだけの意欲も力もなかったのです。認知症の方は、主に介護する人にのみ自分のトゲトゲした心をさらけ出し、自分の息子や親族、地域の人にはよいところを見せるので、介護の苦労はわかてもらえません。介護の仕方がわかればわかるほど夫中心のゴマすりの日々でしたが、それは私を介護うつにいざない、自殺願望に追い込みました。





私どもは、どんなに苦しくても将来の希望や楽しみがあるから毎日が過ごせますが、そんなことが削られていく病気でした。最後の五年は、食欲があるのに飲み込めない苦労と、それを訴えられない失語症も加わりました。体もこれ以上やせられないのではと思うほどやせて死を迎えました。





かえりみますと、約8年利用した介護保険は有難く、スタッフの手は神の手でした。夫にとっての幸せは、終末期に妻と一人息子の家族が貴重な人生に頭を下げていたことだと思います。本当にご苦労さまでした。死亡後二年経つと、夫の心の痛みを温かく思い出すようになりました。毎日ロザリオを15分ほどとなえています。






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2010年08月14日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集

認知症の人と家族の会






いま、介護でいちばんつらいあなたへ、思いとどまった介護者からの渾身のメッセージ集の中からお届けします。




変わる  何度も涙しながら自分を変える


「一生懸命にならず開き直りなさい」
が魔法の言葉だった

                              (福岡県女性・74歳)


姑の発症から七年たったころ、「家に帰らせていただきます」に始まり、徘徊など一番大変な時期に夫が発病し、子どもに恵まれなかったため、悲しむ間もなく一対一の介護が始まりました。




その後、異食、排泄、妄想と様々な症状が現れ、私の睡眠時間もとれない中、義妹からも「頭を下げて『お願いします』と言えば、親だから見るよ」と言われ、「自分達の親なのに、ましてや四人も娘がいるのに、どうして私が頭を下げなければ!」と維持になり、介護を続けていました。




この時期が心身共に一番疲れ果てていた頃で、殺意をおぼえるようになり、すぐ近くの海への散歩のとき「ここから突き落としたら・・・・」「一緒に死のうか・・・・」などと考えるようになりました介護日記もこの頃から何も書かず、「死、死、死」ばかり書いていました。




デイサービスが始まって利用するようになり、スタッフの方から「家族の会」を教えられ会報、を頂き、まず体験談を何度も何度も読み、早速入会しました。リフレッシュ旅行に参加するため、初めてショートステイを利用。10年ぶりに温泉につかり、一晩中話を聞いてくださったこと、自分だけがつらい介護をしていると思っていたこと、先輩の方々はデイサービスなんてなかった頃の介護・・・・・。さぞ大変だったことだろう。




そして何よりも「一生懸命にならず開き直りなさい」という言葉に、雷に打たれたような衝撃と、まるで魔法の言葉、私はそう感じたのでした。この言葉により今まで張りつめていた心が楽になり、素直に姑を受け入れるゆとりもでき、看取ることもできました。




殺さないでよかった。死なないでよかった。親兄弟を悲しませずによかった。あのときの苦しさを乗り超えたんだもの。少々苦しいことがあっても何のその!」一人で生きているおばあさんです。





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2010年08月05日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

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変わる  何度も涙しながら自分を変える




何か環境の転換はいかがでしょう
                            (兵庫県・女性・74歳)                                




老々介護により私も、主人が死ねばよいとか自殺を思っていました。が、特養に二人で入所して、初めはものめずらしさも手伝って考えが薄れてきました。しかし、日が過ぎると、もったいないことですが退屈もあったのと、また主人が「家に帰ろう」(家はありません)とか「父母が淋しがっとるから(父母は25年前に死亡)。それも分かりません)家に帰ろう」とか色々とややこしく言うことの繰り返しで、私も頭にきて、また「死ねばよいのに」と思い出しました。 





ふり返ると、介護10年目を迎えて当初より便失禁があり、オムツの取替えや臭い消しなどしたりしていましたが、入所して初めは職員さんの手をわずらわせず私が介護していました。それで事業所の方に「デイサービスに預かってもらいたい」と申し出ましたところ、3階で一緒に生活していたのを三、四階に分けてくださいましたら、今では何もなかったように生活ができています。そして主人に、淋しい思いをさせてごめんなさい、と謝る日々が続いています。






一度何か転換期をもたれればいかがでしょう。施設へ入所させるとかショートステイをさせるとか、いかがでしょうか。





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2010年07月31日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

認知症の人と家族の会






いま、介護でいちばんつらいあなたへ、思いとどまった介護者からの渾身のメッセージ集の中からお届けします。



変わる  何度も涙しながら自分を変える



あなたは今、
究極の人助けをしているのです

                          (山形県」・女性・73歳)



もしあなたが、苦しみと怒り、悔しさの渦中におられるのなら、15年くらい前の私とお同じですね。どうやってそこから抜け出て、20年を超えるアルツハイマー病の母の介護を自宅でなし終えたか、私の話を聞いてください。




布団に寄りかかってうとうとした瞬間に、母の父母(私の祖父母、写真でのみ見たことあり)が「ありがとよ、ちよを面倒見てくれて」と丸い大輪の天空から私を見おろして言ったのです。。その泪っぽい目の老女が昔見た写真の祖母と気付いたのは、ハッと目ざめてすぐ。その時の睡眠も5~6分だったと思います。




しかし、すごく鮮明で、祖母のいた天空の大きな輪とその周りの人々がみんな下を向いて、そこがどうやら我々の住んでいたこの場所だったことが分かるのです。祖父母にすれば母は娘。その介護をしている私に泪をためての感謝でした。




それ以来、私の一挙手一投足を祖父母が見ているという思いと、母の先祖が私に感謝しているというよろこび(誇り)で、私は一変しました。手を抜くことができなくなり、そして介護が自信になりました。




あなたのお相手の方の亡きご両親がどれほどあなたに感謝されているか。その心を思いやってください。きっと泣いて感謝していると思います。あなたは今、究極の人助けをしているのですもの。





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2010年07月20日

死なないで!殺さないで!生きよう! メッセージ集より

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変わる  何度も涙しながら自分を変える



私だけの秘密の手帳に
思いをすべて書きなぐります

                           (愛知県・女性・70歳)



義父は九年前に96歳で他界、義母は現在96歳で介護中、介護歴通算15年。二人とも自宅介護。自尊心が非常に強く、ショートステイにも行ってくれないので、介護者(私)が自分の時間を持てません。そのうえ本人は自己中心的で、自分の思った通りにならないと大声で泣きわめき、杖などを振り回し、自分の意見が通るまで呼びつけて離さないのです。





本人は理解力が低下しているのに、それを認めることができずパニックになります。以前に老人性うつ病をしているので、そのときのような症状が出るのが怖くて、すべてを受け入れています。





正直な気持ち「死んでくれないかしら」とは、いつも思います。「もう十分生きたでしょう」と、でも体調を崩すと何をおいても病院へつれていくのはなぜか、と自笑しています。物事にこだわるのも、同じことを繰り返すのもみな、認知症という病気のためです」。認知症家族支援プログラムでの医師の話に我に返りました。「すべて病気のなせる業」「二度童」納得しました。





今ではウンコの始末も気にはなりませんが、「我を通す」ことには閉口しています。そして時々我慢しきれず大きな声をあげています。そんな時、私だけの秘密の手帳を持ち、胸につまっていることをすべて書きなぐります。ある時は、読むに耐えられないほど口汚くなることも・・・。数日後読み返すと「怒られて当然ヨ!」と思ったり、あるときは反省したり、老々介護の毎日です。





ちなみに私70歳、現役の嫁です。1日24時間だけでいいから自分だけの時間がほしい。





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2010年07月14日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ衆より

認知症の人と家族の会






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委ねる


夫は「わしは死なん。
自殺者も殺人犯も出してはいけない」と

                               (香川県・女性・69歳)



71歳の主人は平成17年から眼科、内科、神経内科、と診察を受け、「老人性うつ病」と診断されてアリセプトと意欲を高める薬を飲み、生活は少し不自由でしたが、運転もしていました。平成19年外科で入院し、脳梗塞でも入院しました。いずれも10日ずつでしたが、それから急に物忘れをしたり方向感覚がなくなりました。




夜中のトイレが頻繁になり、一人で留守番ができなくなり、水道の蛇口もしめ忘れます。会話のキャッチボールができず、本人も思っていることが言えないし、自分の思いの半分も妻の私が理解してくれないと言います。本人は真剣で、汗びっしょりで伝えようと行動に移そうとしても、他人には伝えきれず、他人の話す内容が分からないと告げます。




私たちは二人で田舎で生活しており、娘達は県外に住んでいます。公的機関しか頼れず、何度死にたいと思ったか分かりません。アリセプトが2年間はよく効いて水平線を保っていたのですが、入院中に帰宅したいと怒りだし、どうにもならなくなりました。人格はこんなに変わるものかと恨みました。




温厚な人柄で会社の社長まで務めた人望の厚かった主人の変貌に、何度主人に「一緒に死にましょう」とお願いしたか分かりません。新聞の暗いニュースの犯人の気持ちも分かりました。




しかし、主人は「わしは死なん。この家から自殺者も殺人犯も出してはいけない」と言いました。主人はやはり大黒柱だと尊敬しなおしました。そして「家族の会」に出席させていただき、新しい現実を乗り切った方々の何と明るいことかと感嘆し、私も先を明るく見て主人と共に生きていこうと思いました。そのうちにアリセプトが効かなくなるとまた、井戸の底に落ちるような絶望感に落ちるかも知れませんが、今が元気で幸せならば私たちはハッピーです。





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2010年07月05日

死なないで!殺さないで!生きようメッセージ集より

認知症の人と家族の会






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委ねる


「二人で死んでしまいましょうか」といったら「ウン」と簡単に・・・。
                         (神奈川県・女性・69歳)


74歳の夫は、若年期に発症、要介護1~4になるのに4年と、症状はどんどん進みました。補任も混乱しました。私もストレスでさまざまな悪い体調に悩まされました。




結婚して47年。私は19歳時からのつきあいで、“尊敬する夫”でしたが、発病以来、思ってもみなかった性格破壊が次々に出てきました。特にこたえたのは、自分がしまいこんで見つからなくなったお金や眼鏡などを「取っただろう!!」と語気荒く迫られたことが。娘が「お父さんをこんなに一生懸命お世話しているのが分からないの?そんなこと言うと、お母さんを私の家に連れて行ってしまうわよ。ごめんなさいでしょう」と、とりなしてくれましたが、結局「さよなら!」と言われてしまいました。





それ以後も私は変わらず面倒を見ているつもりでしたが、主人は「他人を見る目」になってしまったように思います。今も私に反応しません。「こんなんじゃー二人で死んでしまいましょうか」と言ったら「ウン」と簡単に言われ、一度しかない自分の人生をこんなことで中断してはいけない、思い返しました。また、94歳の実父二悲しい思いをさせてはならないという気持ちも働きました。




大学ノートに心のままを綴り、現在2冊目が終わるところです。昨年、要介護4になり、私の体調も最悪になった時、幸いにも入所希望して二年待っていた特養に入所できることになリました。その際、ケアマネージャーの能力の高さを特に感じました。





「今一番大変なこと」もずっと続くわけではなく、決してよくはならないけれど局面は変わっていくので、利用できる公的なことはすべて利用し、また“犠牲になった”という思いを残さないために回りに協力してもらい、趣味はやめずに続けたことで、殺さず、死なさず、死なずにこれたと思います。「悔いなくく頑張った」という気持ちが、これからの人生を悔いなく生きようという気持ちにさせてくれています。





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2010年06月24日

死なないで!殺さないで!生きようメッセージ集より

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委ねる


介護者にとっては抑えきれない感情
                          (東京都・男性・67歳)


若年性認知症の妻を介護して8年を超えましたが、1年くらい前に、在宅介護の限界に達して、施設に入所させました。現在は週に4日ほど、私が施設に通って妻の介護を手伝っています。




苦労をかけっぱなしだった妻の介護には決意を持って望んだのですが、残念ながらカットなってつらく当たるとか、一緒に死んでしまいたいとか、忽然と死んでほしいなどと考えたことが何度もありました。本人が抵抗したり、本人が寝入ってホット一息ついて先行きのことを考えたりした場合に、よくそうなりました。





誰が悪いわけでもないし、病気なのだから仕方がないと理屈ではわかっていても、介護者にとって抑えきれない感情だと思います。在宅介護者が一人の場合、デイサービスやヘルパー派遣などで、できるだけカバーしてもらっても、所詮は主介護者に心身の負担が重くのしかかります。




寝かせるタイミングを外すと眠らなくなってせん妄などで暴れるし、上手く寝かせつけることができても、排泄の失禁を防ぐことができても、排泄の失禁を防ぐために二時・四時・六時に起こしてトイレに連れて行くので、介護者が熟睡できることはありませんでした。一刻も目が話せないので、デイサービスに行っている間か寝入ってからしか外出や家事、自分の食事や入浴すら出来ません。睡眠不足と精神疲労でよれよれになって平常心、自制心を失いました。




振り返ると、自分一人で抱え込んで頑張ることが最悪の要因であり、親身に話を聞いてくれる人がいることが精神的に救われる最良のキーでした。




そして究極の救いは施設への入所でした。要介護5・精神障害1級という状態で、施設介護に変えるときは悩みましたが、現在では、思い切ってよかったと思っています。本人も、一年たった今ではすっかり慣れて、機嫌よく生活しています。私も夜はしっかり眠れるし、常に優しく笑顔で接することができます。施設入所により共倒れの危機は回避されました。




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2010年06月15日

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反対車線のトラックに突入する
誘惑に何度もかられ

                               (神奈川県・男性・67歳)



妻は58歳頃からもの忘れが始まりました。その頃まだ看護師をしていましたが、患者さんの名前とか薬の名前を忘れないよういつもメモし、深夜まで整理して忘れないよう努力していました。その当事つけていた10年日記にも、もの忘れに苦しんだことを書いてあります。




その後病気が進行し、平成15年にアルツハイマー病の診断を受けました。言葉はほとんど失いました。反社会的な行為、徘徊も始まりました。玄関前で排便したり、外出先では平気で万引をしました。




妻は旅行が好きでしたのでよく車で旅に出ました。そんな時、何もかも終わりにしようと、反対車線のトラックに正面から突入したらどんなに楽になるのかと思い、誘惑にかられることが何度もありました。でも残された家族のことを考えると、できませんでした。私自身、腰と腕が痛み、これ以上の自宅介護は限界があると思い、平成17年有料老人ホームに入居させました。





それから約3年、妻は終末期を迎えたので、今は自宅介護に戻しました。あの時、反対車線に行かないでよかったと思います。いま、妻は一言も言葉を発しませんが、私の顔を見るとニコニコしています。残された日々、何か幸せも感じています。






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2010年06月03日

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「孫が殺人犯の母をもったら一生かわいそうや」
と母に論され

                            (奈良県・女性・67歳)


舅姑が同時に呆けて引き取りましたが、物取られ妄想と罵声が一日中と飛びかっており、私は全く思考力がなくなり、家庭崩壊寸前でした。私が一人犠牲になれば残る三人は助かると思い、両親を殺すことばかり考えていました。「二人一緒にどうすれば殺せるかとか、三人一緒に心中することばかり考えている」と実母に話しました。




いつも「辛抱や」と口癖のように言っていた老いた母が、その時は「殺すのやったら帰っておいで。孫が殺人犯の母を持ったら一生かわいそうや」と泣きながら言いました。「実意(まごころ、誠実」の意ー編者注)、丁寧に真心でお世話させてもらいなさい。必ず通じるときが来る」と。




母の涙を見て殺してはいけないと思いました。主人も「警察がなければ殺したい」、子どもも「殺したろろか」と言いましたが、母の言葉を信じ、家族が顔を合わすとお互いに「殺したらあかんよ」と合い言葉になりました。




早川一光先生が「登りあれば必ず下りあり」とおっしゃいました。トンネルから必ず出ます。私の場合10年間はそれは大変でしたが、あと7年間は実意、ていねい、真心が通じました。再々感謝の言葉がありました。臨終の時には私の手を硬く力強く握りしめ、顔を穴のあくほど見つめて旅立ちました。




後悔のない介護をしたので、今は静かに暮らしております。姑のおかげで多くの人たちと知り合え、生き方を教えてもらったようで、現在は高齢者の地域のボランティアに頑張っております。介護中の方々、必ず終わりがあります。どうぞ頑張ってください!





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2010年05月26日

死なないで!殺さないで!域用!メッセージ集

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もっと早くに病気と理解していたら・・・・
                                (埼玉県・女性66歳)


70歳の夫は、若年性認知症の「ピック病」です。50歳そこそこでの発症とみられ、4年半の保護入院を経て特養に入所し、(2008年)7月26日で8年目に入りました。「ピック病」とわかる前、万引きなど反社会的な異常行為に苦しみ悩みました。そんな修羅場の時、「私はこの家を出る。離婚しよう」と言うと「お前がいなくなるとご飯も食べられない」「では一緒に死のう」と言うと「死ぬのはいやだ」と。



それが乗り切れたのは、娘が嫁いだ先に行くと初孫に会えること、孫の笑顔を見るとそのつらさを忘れること、解雇された夫に代わり私が仕事をもらったこと、「家族の会」の場で思いっきり涙し、仲間と分かち会えたこと、そして愛してくれる愛犬「かりん」がいたからです。




もしあの時、主治医が早くに「ピック病」と告げ、異常行為なのだと知らせてくれ、病気がそうさせたのだと理解していたら、もっと優しく接し対処できたのにと思うと、今も胸が痛みます。あの修羅場を何とか乗り切り今は、夫がこのような病気になったからこそ多くの経験を得ることができた、これを財産と思い大切にしていきたいと思います。




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2010年05月11日

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もう少しもう少しと
自分を励まして

                                     (埼玉県・女性・65歳)

若年性レビー小体型認知症の夫を在宅で五年半、病院・療養型・そして新型特養と移りました。現在、身体障害1級・要介護5、寝たきり・胃ろうです。五年半は、私が浮気をしているという妄想に苦しめられました。そのうちにパーキンソン症状が出始め、イライラを私にぶつけ、精神的に追い詰められてしまいました。夫がデイサービスから帰ってくる時間になると心臓・胃がおかしくなり痛み出します。外出して駅のホームで待っていると、入ってくる電車にフラフラと近寄って行ってしまうようになり、ハッとすることも多くなってきました。




夫を殺そうとは思いませんでしたが、私が死ぬことで終わりにしようと思っていました。後は死ぬ時期をいつにしようと考える毎日でした。そんな私が踏みとどまれたのは、いつでも相談に乗ってくれる主治医、ケアマネージャー、病院の送迎などをしてくれる私の弟夫婦たち、そして友だち、ご近所の方々の手助けでした。




そして何よりもパーキンソン症状で動けない夫はどうなるのだろうという心配(私には子どもがおりませんし、夫の兄弟はあてになりません)。皆がこれだけ応援してくれるのだから、もうすこし頑張ってみよう、もう少しもう少し、と10年余りが過ぎました。





今は特養のベッドで穏かに眠る夫を見るといとおしく、死なないでよかったとしみじみ思います。少し時間ができた今は、キャラバンメイトとしてサポーター養成講座で家族の立場で参加し、「死なないで、殺さないで」「追い込まれる前に声に出してください」とお願いしています。





介護者同士が一番分かりあえます。ともに話し、ともに泣いて、今はつらいでしょうが、もう少しもう少しと自分を励まし生きていきましょう。そして悲しいことですが、いつか必ず終わりが来ます。




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2010年05月04日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集

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委ねる


行き詰ったら
昨日と同じことをやりましょう

                      (和歌山県・女性・65歳)


私も以前、姑を介護した経験があります。今のように施設も多くなく、また行政も相談になりません。ただ一つ「呆け老人を抱える家族の会」(現「認知症の人と家族の会」-編集注)に参加し、色々な方々の話を聞き、また話し、助けていただきました。夫の家族は、兄が、「精神病院に入院」し、残り三人の男兄弟は働きませんから、経済的にもとても苦しく私も内職をして手助けをしました。




子どもも長女が嫁ぎこれからというとき、姑が突然高熱を出し入院。そのとき「アルツハイマー病」と診断されましたが、腰が抜ける思いでした。次々と色々なことが続き、娘も結婚5年目に夫を亡くし、私もストレスから婦人病になり「女の器」を二つも摘出しました。




術後の養生もできないうちにまた姑が高熱を出し入院、退院の繰り返し、相変わらず経済的に苦しく「この姑がいなければ」と何度も思いました。「母がいるから兄弟がお金を取りに来る」と毎日思い自分が消えるか、姑を消すかと考えました。それでも娘の子ども(孫二人が5五歳と二歳)の笑顔に助けられました。




世間の人は、「とても大変だったわね」「よく介護がんばったね」と声をかけてくれます。今はサポーターとして、また色々な方々に辻説法などをしながら、自分の苦労を財産にして活動しています。頑張らなくても良いですが、行き詰ったときは、昨日と同じことを今日もやりましょう。





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2010年04月29日

しないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集

認知症の人と家族の会






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「人間は生きていることに値打ちがある」
という言葉が励みに

                       (静岡県・女性・65歳)



新聞の紙面で、介護を苦にしての自殺とか相手を殺してしまったという記事を読むと、私も信名気持ちになったことが何度もあったと思います。最初はうつ病と診断されてからできないことが日を追って増えてくる苦しみ、そんな夫を病院へ送り迎えしながら「おとうさん、車ごとここから落ちて死んでしまおうか?」と冗談めかして言った時。



認知症が進行して夜も眠らなくなり騒いで困り果てた時、私は夫の口を布団で押さえつけていました。「殺してやる」。夫は「殺してくれ」と言いました。そんな日々を過ごし、施設入所しました。数日は、何と悪いことをしてしまったと、入所したことに罪悪感をもちました。でも、それからは毎日施設へ通い、できる限り夫の世話をするようにしました。



このような病気になってしまった人をあんなに憎んで悲しんでいたのに入所してからは自分も人が変わったように、やさしい気持ちで相手に接することができるようになりました。ある作家の「人間は生きていることに値打ちがある」という言葉が励みになり、生きていてくれてありがとうと言えるようになりました。



最初の診断からもう10年が過ぎようとしています。家族の支え、介護職員のやさしさ、看護師の支え、「家族の会」の会員さんのお便り、何よりもそこに行けば会える人がいるから今の自分があると思います。どうぞ介護に疲れたら無理をせず、他人の目を気にしないで、自分も大切にして欲しいと思います。






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2010年04月16日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

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きっと穏かな日が来る
                              (京都府・女性・65歳)


57歳で若年性アルツハイマー病を発病した夫を介護して、12年目、在宅で何とか頑張っています。暴言・暴力・徘徊・異食、物を壊すなど、若いがゆえにパワー全開のころ、いつも、“死にたい!殺そう!”の繰り返し・・・・・。今思えば恐ろしいことです。毎日が嫌で嫌でドッと疲れ、親の写真に手を合わせ、「何とかして! こんなこといつまで続くのやろ?」。



思いとどまることができたのは、やはり子供や孫、助けていただいている周りの人たちの顔が浮かび、「明日は何とかなるやろ、今日一日無事に終われば」と思えたからです。何とか乗り越えられたのも、時には横着な介護、手抜きと、許容範囲を広げることも必要と思うようになり、精神的疲労から少しだけ開放されて、ずいぶん気持が楽になりました。



次から次へと悩ましいことでしたが、自分自身の性格も幸いして一年何とかなりました。二年何とか過ごす事ができてから、今さらへこたれたらあかん、で十二年です。本人の機能低下とともに何時までも大変なときが続くものではなく、入退院を繰り返しながらも、今では意思疎通、会話もなく、全介助、寝たきりの状態になり、混乱することなく穏かな、静かな一日一日を暮らしています。今は気を荒立てることもなく、自分でも「ようがんばったなー!!」と、あの頃が懐かしくさえ思えます。



今大変な介護に直面されている方、自分も大切に、きっと穏かな日が来ると願って、死んだらアカン!「死なないで!殺さないで!」がんばろう!!元気出して!!です。私も介護進行中、まだまだがんばろう!です。




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2010年04月11日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

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毎日殺したいと思い続けていたが、
自殺する勇気がなかった

                               (長野県・女性64歳)


若年性アルツハイマーの夫は、診断が下ってから5年がたちます。要介護3です。今日もテレビで息子さんが父親を手にかけたと取り上げています。どうして親に手をかけるのかとコメンテーターは言っていますが、私には息子の気持ちが良く分かります。息子家族がいなかったら、私もワイドショーでひどい妻だといわれていたことでしょう。



毎日殺したいと思い続けていました。でも私には自殺する勇気がありませんでした。息子、嫁、孫に助けられ、また友人、「家族の会」会報『ぽ~れぽ~れ』の力が大きいです。私が倒れたとき、近所の介護経験のある方が「夜眠れないんだから、いつでも枕を出しておいて、本人が休んでいるときは昼間でも寝るように」と言ってくださったことは、私にとって最高の薬となりました。



『ぽ~れぽ~れ』で紹介していただいたFさんとは 、電話と手紙だけの付き合いですが、同じ立場の方との交流が一番ですね。80代、90代の方を介護されている方も大変ですが、若年性アルツハイマーの介護は「なぜこの若さで」という思いとのたたかいもあります。




自分がみているから友人と食事会に行ってこい、と出してくれる息子家族に感謝しています。嫁も優しく、1歳と3歳の孫を連れて顔を見せに来てくれます。孫の笑顔に生きていく力をもらい「頑張らない介護」をしていきます。なんといっても息子家族に迷惑をかけたくないの思いだけです。




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2010年04月04日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

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母はとびっきりの笑顔で「生きていたい」と
                                   (神奈川県・女性・63歳)

一緒に死んでしまったほうが楽かも、と考えたことが二度あります。99歳の義母は20年前に兄弟5人どこもダメになり、我が家にやってきました。色々ありましたが、デイサービス、ショートステイなど利用しながら、2年前の大腿骨骨折までは自宅で介護してきました。





一度目は、その大腿骨骨折の時で、認知症の人の入院がいかにすさまじいものかを経験しました。骨折していることを忘れ、「家に帰ろう」「助けてください」と叫び続けるのです。看護師さんをつねったり、「バーカ」と罵声を浴びせたり・・・・。付き添っている私が疲れはて、思わず「一緒に死んじゃおうか」と言ってしまいました。そうしたら母はとびっきりの笑顔で「生きていたい」と。ハッと我に返りました。




二度目は、一年前の皮膚癌の手術。入院のときです。実は大腿骨骨折で入院から退院すると同時にグループホームに入れていただき、とても良い介護をしていただいたおかげで、元気にしていましたが、頭の上のこぶが癌と分かり、手術をすることにしました。




最後まで自宅でと思っていましたので、また私のところへ返ってきてくれると張り切って望みましたが、入院中は点滴。酸素マスクも外してしまうし、手術日は拘束を受けましたがそれも外す始末。病院に来ていた妊婦さんを突き飛ばしたときには、もう言葉はありませんでした。




病室に帰って、「おばあちゃま、まだ生きていたい?」と聞きました。そしたらとびっきりの笑顔で、「もちろん生きていたいですとも」と言うのです。一回目と同じく、また私はハッと我に返りました。あの母のとびっきりの“笑顔”に、私は救われました。




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2010年03月24日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集

認知症の人と家族の会






いま、介護でいちばんつらいあなたへ、思いとどまった介護者からの渾身のメッセージ集の中からお届けします。



委ねる


「もう介護できない」と
   声に出す勇気が必要

                   (宮崎県・女性・61歳)



彼岸花が咲く季節になると思い出します。同居の義母がアルツハイマー病と診断され、今から何が起こるのだろう、どうなるのだろう、と不安で一杯だったことを。アルツハイマー病だけでなく脳梗塞になったり、転倒して大腿部骨折で入院したときは、あの優しい義母が「めし、めし、早く早く」と机をたたいて催促する姿を見て、家に連れて返って私にみられるだろうかと不安でしたが、主人には口に出していえず、今思うとあの時、私の心と身体はもう限界だったような気がします。




家で一週間(デイサービス4日)、ショートステイ一週間と交替でみても、私の心はちっとも晴れなくなりました。鬼のような顔で「飯たけ」と大声を出したときは即、義母の足を踏みつけてしまいました。このままだと首を絞めるかもしれないと思えました。




常々娘が「自分の身を犠牲にしてまでみなくてもいい」と言っていました。母親の介護姿、父親のイライラする声、もう家族の心もバラバラになっていました。もし娘の後押しがなければ、入院させることは出来なかったと思います。入院させたらさせたで、自分が、入院させてしまった罪悪感と、目的をなくしてしまったのと主人の行動に不信感をもつようになり、精神的にパンクしてしまいました。



とことん介護してしまったのが、一番の原因だと思います。「もう介護できない」と声に出していうべきです。そして介護者に、「もう十分みてくれた。今度は自分を楽にしてくれ」と言ってっくれる人がいないと共倒れで、介護してもらう人も、介護者も不幸です。決断する勇気、自分の思いを口に出す勇気が必要だと思います。




一度折れてしまった心はなかなかもとに戻りません。ちょっとしたことで思い出し、もう絶対介護はできないと、今でも思っています。




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2010年03月16日

死なないで!殺さないで!生きよう!メッセージ集より

認知症の人と家族の会






いま、介護でいちばんつらいあなたへ、思いとどまった介護者からの渾身のメッセージ集の中からお届けします。



委ねる

自分が壊れてしまう前に



とどまったのは 
そのときたまたま代車だったから

                               (埼玉県・女性・61歳)



私は、夫の両親の介護を同時にしていたときがつらい時期でした。殺したいとまでは、理性が働いたのかそれはヤバイと思い考えませんでしたが、早く死んでくれればいいのに、とは毎日思っていました。



平成七年の一月、それまでの別棟の暮らしをやめ、介護のため立て直した家に同居し始めると、もともと脳梗塞を患っていた義父が急速に衰え、オムツをしてほぼ寝たきり状態になりました。ほどなく平成8年の始め頃から義母に認知症の症状が出始め、「父が具合悪くなり、入院してくれれば楽になるのに」と願い、実際にそうなると何とか母一人だけにになり、ホッとしたのも覚えています。



翌9年の二月中旬、娘の入学試験の最中に夫が心筋梗塞デ倒れた時は、絶体絶命のピンチでした。同五月に義父は特養に措置入所、義母は老健に入所し、、その施設料の支払いのため、、私はスパーのパートで働き始めました。



義父を老健から特養に移した時、夫の態度がおかしく、特養の受け入れ時の看護師さんに「ご主人どうされたのですか、奥さんも大変ですね。」と言われました。夫は身体が快復したのに精神がついていけず、まだ仕事に復帰できずにいた時でした。




義父を特養に送りとどけた後、たりない衣類に気づき、私は一人で届けた帰り、国道と交差するトンネル壁にぶつかればきっと死ねるだろうな、と一瞬思いましたが、とどまりました。そのわけは、その日は車を修理に出しており、自動車修理工場の代車を使っていたからです。



もし私が事故を起こしたら、自動車屋さんも困るし、夫の損保会社(勤務先)にも迷惑をかけると思ったのです。翌日、市の高齢者福祉課の担当の女性に話すと「それだけはなさらないで下さいね」と真剣に言われました。




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